monotonekunの日記

書くことの意義

哀愁

久しぶりに父と野球観戦に行った。

 

チケットは父の会社が年間契約しているらしい席で、東京ドームもコロナの影響がおさまりつつあり、周りの席にもちらほらと観客が入っていた。

昨年、観戦にきた際には前後席や横一列誰もおらず、ゆったりとした状況で観戦できた事を記憶している。

 

席は、バックネット裏の2階席であり、イメージとしては野球盤の角度の眺めだ。

観戦中何度も過去を回想している自分がいる。
かれこれ、私が20年前の小学校から中学校にかけては、野球少年であり、友人と野球をしては夜まで遊んで帰る毎日であった。

それほど上手くもならず、最後はやめてしまうのだが、父が休みの日は野球観戦やキャッチボール・送迎等至れり尽くせりであり、グローブやバットといった道具もいつも買ってもらえた記憶がある。

登下校では友人達と鞄持ちを実施したり、道に転がり込んで休憩したり、下校に一体何時間かけるのかというぐらい時間をかけて帰宅し、人生でもあっという間でかけがえない時間であったことを思い出してる。


あの頃は、父が休みの日が待ち遠しくスーパーマンのように思っていた。

そろそろ同じ年齢に差し掛かるのか、、、と考える。

 

自分も歳を取り、給料(収入や支出)等の現実が見え、悟るのである。


当時はきっと自分への出費を抑えて、子供に費やしていたのだろうと推測する。

 

父は観戦中も、選手達のバッティングやピッチングにいちゃもんをつけたり、結果を予想したりし、昔同居している時・車のラジオを聴いている時にも良く聞いたのだが、懐かしい。

いつも思っていたことだが、父はなんとなく当てずっぽうで『外角で三振だな』・
『ライト前かな』・『低め三振』と根拠も無いはずなのに、なぜか結果が当たるのである。

そんな父を預言者のように感じていたのである。

 

【デジャブ】
既視感 過去に経験・体験したことのない、初体験の事柄であるはずにも関わらず、かつて同じような事を
体験したことがあるかのような感覚に包まれること。
「前にもどこかで一度これと同じものを見たような気がする」という感覚。

 

2人の言葉数は多くない、【話した数ではなく時間を共有していることが嬉しく思う】
これが2人の距離感であり真実なのである。

 

帰りがけ、駅で父の後ろ姿をみて、あとどのぐらい時間があるのどだろうかと想いは過ったが、考えることをやめた。

それが真実ではあるが、考えても無駄なのである。

そして、最後まで見送る事はせず、自分も帰路に着くことにした。

 

なんてことない日であったが良い1日であった。